世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

サイレント・レジスタンス 18 声なき逃避

サイレント・レジスタンス 18 声なき逃避

第18話 声なき逃避


 介護施設は、肩ほどの高さのコンクリート塀に囲まれている。


 門をくぐると駐車場があり、その奥に施設の建物が建っていた。


 玄関前には二台の救急車が停まっていた。どちらも赤い回転灯を点けている。


 昨夜の夜勤スタッフから、今日ここにいる入所者たちを病院へ搬送すると聞かされていた。


 この施設も、もうすぐ閉鎖されるらしい。


 それでも今は、外にいる方が危険だった。


 僕はすがるような思いで施設の中へ入った。


 玄関には一台のストレッチャーが放置されていた。


 誰も乗っていない。


 救急隊員はすでに中へ入っているのだろうか。


 妙に静かだった。


 ホールの奥では、アイドラゴンが点けっぱなしになっていた。


 例の急造スタジオが映っている。


 画面の中で、男が懸命に手話を続けていた。


  〈これは異星人による侵略行為です。警察官、軍人など、武力を行使できる組織を中心にウイルス感染が広がっています〉


 僕は足を止めた。


  〈感染した者は、一般人を襲います。そして音、特に人間の声に敏感に反応します。声を出せば襲い掛かってきます。決して声を出さないでください〉


 ――決して声を出さないでください。


 さっき、身をもって知ったばかりだ。


 僕は床に置いていたリュックを拾い上げた。


 こんな場所、一刻も早く離れた方がいい。


 それでも、黙って出ていくわけにもいかない。


 誰か残っていないか確かめようと、ホールから廊下へ向かった。


 すぐに足が止まった。


 誰かが倒れている。


 うつ伏せになった女性だった。


 見覚えがある。


 ここの介護スタッフだ。


 僕は彼女を仰向けにして、上体を抱き起こした。


 苦しそうに呼吸をしながら、虚ろな目で僕を見る。


 みぞおちの辺りから血が流れていた。床にも赤い血が広がっている。


「いったいどうしたんです? 何があったんです?」


 女性は震える唇を動かした。


「き、救急車が来たけど……救急隊員が中に入ると、掴みかかってきたの」


 僕にはほとんど聞き取れないほどの、か細い声だった。


 それでも、これだけ近ければ口の動きは読める。


「ここにいたら危ないわ。あなた、逃げなさい」


 それだけ言うと、急に身体から力が抜けた。


 女性の頭が僕の腕の中に崩れ落ちる。


 肩を揺すってみた。


 反応はない。


 閉じた目が再び開くこともなかった。


 呼吸も止まっていた。


 僕はゆっくりと女性の身体を床に戻した。


 その時だった。


 介護スペースの方で、何かが動いた。


 見ると、血まみれの女性が廊下へ転がり出てきた。


 その後を追うように、三人の男が現れた。


 救急隊員の格好をしている。


 三人は倒れた女性に群がった。


 一人が腕を掴み、もう一人が身体を押さえつける。


 女性が大きく口を開けた。


 叫んでいる。


 やがて、その身体が動かなくなった。


 白い壁には血が飛び散り、床にも赤い跡が広がっていた。


 僕は動けなかった。


 目の前で起きていることを、頭が理解するのを拒んでいた。


 そして、
「ヒッ」
 喉から小さな声が漏れた。


 三人の男が、ぴたりと動きを止めた。


 しまった。


 全員がゆっくりとこちらを向く。


 血に濡れた女性から手を離し、立ち上がった。


 僕を見ている。


 寮の跡地で遭遇した警官たちと同じだった。


 ――声を出せば、襲い掛かってきます。


 さっき見た手話放送が脳裏に浮かんだ。


 男たちがこちらへ歩き始める。


 声を出しちゃダメだ。


 僕は後ずさった。


 男たちの歩みが速くなる。


 逃げろ。


 僕は踵を返した。


 今度こそ、一言も声を出さずに。


 後ろを振り返ることもなく、一目散に走り出した。

 

つづく

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