介護施設は、肩ほどの高さのコンクリート塀に囲まれている。
門をくぐると駐車場があり、その奥に施設の建物が建っていた。
玄関前には二台の救急車が停まっていた。どちらも赤い回転灯を点けている。
昨夜の夜勤スタッフから、今日ここにいる入所者たちを病院へ搬送すると聞かされていた。
この施設も、もうすぐ閉鎖されるらしい。
それでも今は、外にいる方が危険だった。
僕はすがるような思いで施設の中へ入った。
玄関には一台のストレッチャーが放置されていた。
誰も乗っていない。
救急隊員はすでに中へ入っているのだろうか。
妙に静かだった。
ホールの奥では、アイドラゴンが点けっぱなしになっていた。
例の急造スタジオが映っている。
画面の中で、男が懸命に手話を続けていた。
〈これは異星人による侵略行為です。警察官、軍人など、武力を行使できる組織を中心にウイルス感染が広がっています〉
僕は足を止めた。
〈感染した者は、一般人を襲います。そして音、特に人間の声に敏感に反応します。声を出せば襲い掛かってきます。決して声を出さないでください〉
――決して声を出さないでください。
さっき、身をもって知ったばかりだ。
僕は床に置いていたリュックを拾い上げた。
こんな場所、一刻も早く離れた方がいい。
それでも、黙って出ていくわけにもいかない。
誰か残っていないか確かめようと、ホールから廊下へ向かった。
すぐに足が止まった。
誰かが倒れている。
うつ伏せになった女性だった。
見覚えがある。
ここの介護スタッフだ。
僕は彼女を仰向けにして、上体を抱き起こした。
苦しそうに呼吸をしながら、虚ろな目で僕を見る。
みぞおちの辺りから血が流れていた。床にも赤い血が広がっている。
「いったいどうしたんです? 何があったんです?」
女性は震える唇を動かした。
「き、救急車が来たけど……救急隊員が中に入ると、掴みかかってきたの」
僕にはほとんど聞き取れないほどの、か細い声だった。
それでも、これだけ近ければ口の動きは読める。
「ここにいたら危ないわ。あなた、逃げなさい」
それだけ言うと、急に身体から力が抜けた。
女性の頭が僕の腕の中に崩れ落ちる。
肩を揺すってみた。
反応はない。
閉じた目が再び開くこともなかった。
呼吸も止まっていた。
僕はゆっくりと女性の身体を床に戻した。
その時だった。
介護スペースの方で、何かが動いた。
見ると、血まみれの女性が廊下へ転がり出てきた。
その後を追うように、三人の男が現れた。
救急隊員の格好をしている。
三人は倒れた女性に群がった。
一人が腕を掴み、もう一人が身体を押さえつける。
女性が大きく口を開けた。
叫んでいる。
やがて、その身体が動かなくなった。
白い壁には血が飛び散り、床にも赤い跡が広がっていた。
僕は動けなかった。
目の前で起きていることを、頭が理解するのを拒んでいた。
そして、
「ヒッ」
喉から小さな声が漏れた。
三人の男が、ぴたりと動きを止めた。
しまった。
全員がゆっくりとこちらを向く。
血に濡れた女性から手を離し、立ち上がった。
僕を見ている。
寮の跡地で遭遇した警官たちと同じだった。
――声を出せば、襲い掛かってきます。
さっき見た手話放送が脳裏に浮かんだ。
男たちがこちらへ歩き始める。
声を出しちゃダメだ。
僕は後ずさった。
男たちの歩みが速くなる。
逃げろ。
僕は踵を返した。
今度こそ、一言も声を出さずに。
後ろを振り返ることもなく、一目散に走り出した。
つづく
